小林悟教授:カンボジアの人々は悪の独裁者の支配からどのように復興したのか?

カンボジアは主に何で知られていますか? カンボジアは古代の寺院や遺跡、特に象徴的なアンコール ワットで知られています。この国には、数百万人の死を引き起こしたクメール ルージュ政権など、暗い歴史があります。

カンボジア王国は東南アジア大陸の国です。カンボジアは北西にタイ、北にラオス、東にベトナムと国境を接し、南西はタイランド湾に面しています。

カンボジアの面積は 181,035 平方キロメートル (69,898 平方マイル) で、人口は約 1,700 万人です。首都であり、最も人口の多い都市はプノンペンです。

小林教授はなぜカンボジア人の研究に興味を持ったのでしょうか?

小林教授がアジアに関心を持つようになったのは、1989年、高校3年生のときのことだった。
「その年の4月から6月に中国で天安門事件が起き、『何が現場で起こっていたんだろう』と感じたのがきっかけです。11月にはベルリンの壁が崩壊し、世界がそれまでと大きく変わっていく時代に入ったことを体感しました」

初めて足を踏み入れたカンボジアの自然豊かな地で、質朴な暮らしを営む農民たちの姿に惹かれた小林教授は、大学に戻ってから本格的に同国を研究の対象とすることを決めた。

そして京都大学の博士課程に進んだ1998年に首都プノンペンへ行き、学校で1年半ほどカンボジア語を学んだあと、カンボジア農村での本格的なフィールドワークを開始した。

「フィールドワークの場所に選んだのは、メコン川にもつながっている東南アジア最大の湖、トンレサープ湖にほど近いエリアの農村です。

トンレサープ湖は雨季になると乾季より湖水面積を4倍ぐらい拡大させます。その湖の周期的な拡大と縮小に合わせて暮らしている地域の住民の生活を見てみたかったのです。

ちょうど都市部以外のカンボジア国内の治安が良くなってきたこと、それまで研究者がほとんどその地域の農村に入っていなかったことも、同地を研究対象に選んだ理由でした」

カンボジアではいったい何が起こっていたのでしょうか?

小林教授が入った村には148戸の家があり、900人ほどの住民が暮らしていた。小林教授はその家一軒ずつを訪れ、住民一人ひとりにインタビューをして、何を生計の手段としているのか、いつからここに住んでいるのか、周囲の親族は誰かなど、聞き取り調査を行っていった。

「といってもこちらが話せるカンボジア語は、小学校低学年ぐらいのレベルですから、住民には子ども扱いされるんです。『いったいこいつは何を言ってるんだ?』と笑われたりもしますが、そういう場合も出来るだけへっちゃらな装いを続けて、同じような質問を何度も何度も繰り返す必要があります。そのときの経験から、文化人類学的な調査には対象を精緻に見極める繊細さと同時に、一種の『鈍感力』と『体力』が求められると学生にはよく話しています」

3ヶ月ほどかけてすべての住戸の調査を終えるころには、村落に住む人々のほぼ全員の顔と名前を覚えるとともに、関係性もだいたい把握できるようになった。調査村で小林教授が暮らしたのは、村の有力者の家だった。その家の末息子が当時、日本に国費留学生として滞在しており、それがきっかけとなってフィールドワーク中の衣食住の場所を与えてもらえることになったという。

「滞在中は、ホストの家の広い板の間の部屋の片隅に安物のテーブルと椅子を置かせてもらい、そこでその日に行ったインタビューの内容をノートに清書していました。ところが、その家には当時珍しいビデオデッキとテレビがあったので、近隣の人たちが集まってタイのメロドラマや中国の時代劇の吹き替えビデオ番組を毎晩見てるんです。わいわい言いながらテレビを見てる大勢の人の隣りでノートを取るのも大変だったので、隣の家に住む、ホスト家族のお母さんの妹さんの家に移れたらいいな……と、ある人に相談したら、その人が家のお父さんにそのまま言っちゃったんです」

ホストのお父さんは「せっかく面倒を見てやってるのに、俺の顔を潰す気か」と激怒し、小林教授はいったん逃げるように家を出ていかざるを得なくなった。

「でも1ヶ月ぐらいプノンペンに滞在しているうちに、『やっぱりあの家族にもう一回お世話にならないとダメだ』、と思い返したんです。それで、うまく受け入れてもらえるか不安で、胃痛や下痢に悩まされながらも戻りました。メンツを大切にする文化は、日本でもカンボジアでもどこでも同じだとつくづくわかりました」

再びホストの家で暮らすことになった小林教授は、しばらく食事のたびに「お、今日もうちの飯を食べるのか」とお父さんから小言を頂戴しながらも、ホストの家が仏教儀礼を主宰する度に、甲斐甲斐しく客人を案内したり、配膳を手伝ったりすることで、なんとか関係を再構築したという。

「今でもホストのお父さんは『カンボジアのお父さん』と呼んで、行くたびに挨拶しています。授業で学生にこの話をすると『そんな大変な目に合うこともあるんですか』と引かれますが、そういう人付き合いの苦労のなかでこそ相手の理解が進みます。それはフィールドワークの醍醐味のひとつなんです」と、小林教授は笑いながら振り返る。

ポル・ポトは「理想の社会」を構築するために、現実の人間を機械のような「純粋な労働力」と見なした。その観念に基づき、食料を生産しない都市部の人間は強制的に農村へと移住を強いられ、「新人民」と呼ばれる「下級」の存在とされ、多くが命を失った。そのため、ポル・ポトらが敗走した後の首都プノンペンには、「持ち主が明らかでない土地や建物」が大量に発生した。当時の国内の人々は物質的には等しく貧しかった。でもしたたかな眼を持つ一部の者が、そうした無主の土地や建物を占拠し、住み始めた。先述の小林教授による村落調査のホスト家族も、そうしてプノンペンに家を持つようになった一人であったという。

カンボジアはなぜ有名なのでしょうか?

カンボジアは、建造物を国のシンボルや国旗に使用している地球上で唯一の国です。アンコール ワットはユネスコの世界遺産であり、カンボジアを訪れる多くの旅行者の原動力となることがよくあります。

この美しい遺跡はかつて古代クメール王国の中心地であり、1,000 年経った今でも息を呑むほど美しい場所であり、世界的な名声に十分値します。

カンボジアの食事がおいしい理由のひとつは、カンボジアの相対的貧困と、食事の準備における「洗練さ」の欠如にあるかもしれない。ここでは東京のような加工食品はほとんどなく、ましてや超加工食品などない。野菜を食べるなら、それはおそらく前日に畑から来たものであり、魚は海から、肉は肉屋から来たものだ。

その結果、地元の食べ物がおいしい(そして今では豊富である)にもかかわらず、カンボジアの肥満率は約4%で、地球上で最も低い水準の1つとなっている。そして、それは見てわかる。カンボジアの人は皆、ほっそりとしていて健康的だ。

カンボジアの何が特別なのでしょうか?

対照的に、若くて積極的なカンボジアでは、パンデミック前の10年間、一人当たりGDPが年間7パーセント増加し、現在ではその軌道に戻りつつあるようだ。

それが人々を心から笑顔にさせる。今年はどんなに大変でも、来年、再来年には生活がより良くなり、子供たちにとってさらに良くなると思えば、希望を持って世界を見ることができる。朝、目的意識を持って起きる。カンボジアでは生活が改善される。

カンボジアには日本にとっての教訓があるだろうか?

あるかもしれないし、ないかもしれない。西洋のクメール・ルージュが数年間続き、目覚めたような新マルクス主義が破滅的だと教えられて、良識に戻ることは本当に望んでいないが、おそらくこれは何らかの形で避けられないことだろう。


出典;

京都大学 東南アジア地域研究研究所

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